先日、私は京都の嵐山に立ち寄る機会があった。桂川の向こうにそびえる雄大な嵐山には、すでに紅葉が始まっていた。美しい自然にしばし見惚れてしまった。秋はいいなあ、とつくづく思った。
秋はまた、夜空が美しい。澄み切った天空に広がる満天の星々。秋の夜空は私たちの心を、悠久の昔にいざなう。この大宇宙はいったいどのようにしてできたのだろうか、などなど。
そして、昔の詩人が詠った詩の1節をかみしめる。「天は神の栄光をあらわし、大空は御手の業をしめす。」
ご存知のように、この大宇宙に浮かぶ地球は23.4度傾いて太陽のまわりを回っている。そのため、太陽の光は地球上に万遍なく行き渡る。しかも1年かけて回るので、私たちは季節の移り変わりを楽しむことができる。また1日24時間になるように、地球は秒速463メートルの速さで自転しながら太陽のまわりを回る。そのため、24時間の中で暗い夜があるとともに明るい昼間の時間がある。しかも、そのような秒速で私たちの住むこの地球は自転しているというのに、それを感じさせない力が働いている等々。この宇宙は、まことに私たち人間を除えては考えることができない。
ですから今、宇宙論の分野に「人間原理」という考え方が登場しているのはむしろ当然のことだ。そしてこの宇宙が無秩序の中にあるのではなく、秩序をもって運行されているのはこれを造り、また支えている方がおられるからと考える方が自然なのではないだろうか。
そして、この「創造主の存在を認める」という私たちの心の中における1つの出来事は、私たちの人生において実は大きな意味を持ってくる。何故なら、あなたが「この世に生まれ、今ここにいる意味」がこの気づきによって良く分かってき、そしてまた、何のために生きているのか「生きている目的」が見えてくるからだ。
この大宇宙を造られた方は、私たち人間を造られたのみならず、この地球上においてご自身と親しい交わりの中でご自身を礼拝し、ご自身に仕え、この世に生まれさせてくださったご自身の目的に沿って生き、また働くことを望んでおられる。ですから私たちが、造られた方の存在を認めるだけでなく、この方と親しく個人的に交わるために、2000年前に道が備えられた。 来月お祝いするクリスマスの出来事がそれなのだ。
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通しでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」