星野 弘治
「ゆずりあい(愛)、たすけあい(愛)、かたりあい(愛)」 最近目にした標語である。確かに、社会においても、家庭においても、交友関係においても「愛」が求められているんだなあと思わされた。
しかし、実際はどうだろう。路上で怒鳴り合っている現実。職場においても人間関係は何と難しいことか。交友関係においても自己主張が目立つ現実。家庭においてはどうだろう。夫婦においてはどうだろう。
愛の絆で結ばれて家庭を築いてきたはずなのに、離婚率は全国で1.87パーセント、富山では1.44パーセントという。たとえ離婚にならないにしてもジッと耐えに耐えて家庭を守っている奥様方が何と多いことか。「愛」とは裏腹の現実。「愛」の大切なことは知っていながら、それが実践に至らない現実。
人は、もともと互いに愛し合い、「愛の絆」で結ばれていたはずなのに。どうしてこのようになってしまったのだろうか。それは、「愛の神から離れ、神の愛を知らずに生きているからだ」と聖書は言う。
すなわち、創造の当初、神のかたちに似せて造られた人は神との愛の交わりの中に生き、お互いも神の愛にほだされて互いに愛し合う存在だった。まさに「楽園」だったのです。ところが、それをねたむ惑わす霊に惑わされ、人は愛の神から離れてしまった。その結果、何が起きたか。人の生き方は、「神中心の生き方」ではなく「自己中心の生き方」をするようになった。そして、今日の私たちも「神中心の生き方」ではなく「自己中心の生き方」をするようになっているのです。ですから、何もない時は穏やかでも、何か利害がからんだり、自分の思っていたこと、願っていたことと相いれないことが起こったり、言われたりすると騒動が持ち上がってしまう。そこには、神が何を望んでおられるかは全くかえりみられない。ここに人類の悲惨さの原因があるのです。
しかし、決してあきらめることをされない愛の神はご自身との愛の交わりを回復するために私たちに救い主を送って下さった。そして、預言しておられた通りに人間の歴史の中にそのことを成就して下さった。クリスマスでお祝いした通りです。現実に歴史の中でお生まれになった救い主は、当然裁かれなければならない私たちに代わって十字架にかかり裁かれて下さった。ですから、このことを感謝して受け止めるとき、罪の赦しはあなたのものとなり、あなたは神に愛されていることを実感します。
こうして救い主を通して現された愛は、あなたの生き方を「自己中心の生き方」から「神様が喜ばれる生き方」へと変え、人を愛し、人を思いやり、寛容と親切な心になるのです。この「神の愛に生かされて生きる」人生があなたにも提供されています。
「愛する者たちよ。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。」