希望をもって生きるって、なんと素晴らしいことだろう。「春が来た。春が来た。どこに来た。山に来た。里に来た。野にも来た。・・・」 時には2月の気候に逆戻りかと思われた今年の3月。しかし4月には間違いなく桜の花咲く春到来。この春到来の希望があればこそ、あの厳しい冬の寒さにも耐え、辛い毎日も凌げるというもの。
あなたの人生においても確かな希望をもって日々過ごすことが出来たら・・・。
もちろん、誰だって希望をもって生きている。しかしもし、あなたの希望の土台が「快適な生活」であったり、「健康」であったり、「お金」、「結婚」等々であったらどうだろう。地震、災害で一瞬にして夢も希望も奪い去られてしまったり、思いがけない出来事で失意のどん底に突き落とされてしまったりしないだろうか。
どれも人生において大切なもの。しかし、はたしてそれらはめぐりくる季節の訪れのように確かなものだろうか。
しかし、ここにめぐりくる季節に増して確かな希望がある。
それは、イエス・キリストの復活の事実。歴史的事実であり、検証された事実。(いわゆる蘇生、臨死体験の類ではない。)
十字架に付けられたイエス・キリストは、死んで葬られた。
しかし何と、3日目に墓の中からよみがえられ、ご自身の語られたみことばの確かさを実証された。
この復活で、十字架の身代わりの死による罪の赦し、死後に続くいのちの希望が確かになった。
十字架から降ろされ、墓に葬られてから3日目の朝の出来事。女弟子たちはイエスの亡骸に香油を塗るために墓に来た(当時は土葬)。しかし、そこにはイエスの亡骸はなく、巻かれていた亜麻布だけが巻かれたままの状態(すっと抜け出た状態)でそこにあった。知らせを聞いて駆け付けた2人の弟子は、墓が空になっていることを確認した後、帰った。しかし、女弟子の1人、マリヤは墓の傍らで泣いていた。すると後ろで「マリヤ。」と呼ぶ声がした。振り返ると、その声の主はよみがえられたイエス様だった。
イエス様は、その日の夕方にも集まっていた弟子たちに、1週間後には疑い深い弟子にも現れ、ご自身のよみがえられた姿を示された。それから40日の間、半信半疑の弟子たちにご自身の生きておられることを確かな証拠をもって示された。
死んだ後にもある揺るぎない確かな希望! 今号で、その希望をあなたに紹介できることはこの上ない喜びである。この希望は、決して失望に終わることはない。
イエスは言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」