星野 弘治
単なるシンボル?それとも・・・
今回は、ひとりのロックシンガーのことを紹介したい。彼は「十字架のそばに立って」という歌を作った。ロックの道で活躍していた彼が、どうしてこの歌を作るようになったのだろうか。
「十字架」と言いうと、クリスチャンにとっては信仰のシンボル。しかしそれは、実体のない単なるシンボルだったのだろうか。いいえ。この世界を造り、あなたに命を与えられた方が、変わることのない真実な愛を持ってあなたを愛しておられることの証拠だった。
思いがけない出来事
紹介するロックシンガーは小坂忠さん。
1975年のある日のこと、彼の娘が熱湯をかぶって大火傷をしてしまった。彼の妻の祖母は熱心なクリスチャンだった。彼女は、牧師から祈っていただこうと小坂さんを教会に誘った。牧師から娘のために祈っていただくと、不思議と心が平安になった。
娘の包帯がとれる日が来た。見ると、そこには生まれた時のような新しい皮膚が再生していた。彼は牧師の祈りを思い出し、「あの祈りに神が応えてくれたんだ。」と自然に思えてきた。
神の愛が分かった小坂さん
それ以来教会の礼拝に行くようになった小坂さんに転機が訪れた。ある日曜日、彼は牧師が語るイエス・キリストの十字架についての話を娘の事故の思い出と重ね合わせて聞いていた。
苦しんでいる娘の姿を見ているのが辛くて、この痛みを止めることができるなら何でもしてやりたいと思ったほどだった。
それなのに、どうして父である神は十字架につけられたひとり子を助けなかったのだろうか。考えているうちに、それがどんなに大きな愛であったかがようやく分かった。そのとたんに涙が溢れ出し、イエス・キリストを受け入れる祈りをしていた。
「十字架のそばに立って・・・、ああ、何という愛とめぐみ、こんなわたしにさえ、・・・」と、小坂さんは「十字架の側に立って」の中で歌っている。
愛が見えてくる。そして・・・
そう。神様の愛が見えてくる。
十字架のそばに立つとき、神様がどんなにかあなたのことを愛しておられるか、そのことが見えてくる。
小坂忠さんはそんな体験をしたのだった。
確かに、霊である神様も愛も目に見えない。しかし、十字架のそばに立つとき、目に見えない神様も神様の愛も見えて来る。
あなたも十字架のそばに立って十字架を仰いでみませんか。あなたも、この世界を造られた天のお父さまのご愛を体験されることでしょう。
聖書の言葉
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世(注:神を知ろうとしない私たち)を愛された。それは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。