牧師 星野 弘治
まぎらわしい2つ
ある大学での集いがありました。招かれた講師が「だれか、信仰について定義してくれる人はいませんか」と問いかけたそうです。すると、最前列に座っていた学生が即座に「実際にはないことをあると信じることです。」と答えたというのです。
「存在しないものを有ると信じる」―この答えだとどうでしょう。信じるという心の働きに注目が置かれているように思われます。そうだとすると、「心の働き」ですから、「信仰」というより「信心」ということですね。「心の世界」の問題ですから、人によってそれぞれです。しかし「信仰」となると、同じ心の働きではありますが、むしろ信じる対象に注目が置かれており、「心の世界」を超えた世界を仰ぎ見ているものです。
信仰と信心。似て非なる2つ
ここで私は恩師、故春日禮智博士の言葉を思い出します。先生は大谷大学で学ばれた後、京都にある東方文化研究所で経典の現代語訳の働きに携わられた方です。先生が口癖のように言っておられたことは「宗教に科学を持ち込むのは邪道だ」です。前にも触れたことですが、先生は朝毎に「南無阿弥陀仏」と唱えずにはおられない。その心を大切にするのだと言われるのです。純粋で一途な先生を今も尊敬し、思い出します。
しかし、ここで満足できない方がおられました。富山生まれの逸材、故亀谷凌雲師です。先生は、親鸞聖人、蓮如聖人を目指して修行に励んでおられた方ですが、阿弥陀様にお会い出来ずに悶々とした日々が続きます。そんな先生に転機が訪れました。大学で研究のため聖書を開くことがあり、読み進む中でイエス・キリストの存在を知ります。そして、阿弥陀如来の大願はイエス・キリストにおいて成就したことを悟り、イエス・キリストこそ「真の救い主」と認め、信じ、ついにイエス・キリストによる救いを伝える牧師となられたのです。
信仰の対象に歴史的事実があるのか?
「信心」も「信仰」も、人の心に関わることです。心に関わるということで、様々な宗教が生まれてきました。しかし「真の宗教」、「真の救い」は、単に「心の世界のこと」ではないのです。そうではなく、人が信じようが信じまいが存在される歴史上の方であり、その方のなさったことは歴史上の出来事なのです。イエス様は、正に歴史上の人物です。十字架にはりつけにされ、墓に葬られ、3日目に墓からよみがえられたことも歴史上の出来事です。これを私のためだったと理解し、イエス・キリストを救い主と信じ仰ぐとき、「真の救い」があなたに到来するのです。
聖書のことば
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
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