星野 弘治
新年明けましておめでとうございます。新年を迎えて、それぞれ新しい年に向かっての思いや決意がおありだと思います。
ところで、昨年の暮れに世界中でクリスマスのお祝いをしました。このクリスマスのお祝いを終えて、つくづく考えさせられることがあります。それは、「クリスマスでお祝いした救い主イエス・キリストという方は“本物の救い主”だったんだなあ」と言うことです。
「いや、自分の心が安らげば何でもいいではないか」と結論される方がおられます。実は、私もそのように考えていました。しかし、この世界を造られた方の存在を知ってからは考え方が変わりました。この世界を造り、私たちに命を与えられた方が確かにおられるのです。それは、ただ聖書がそういっているということではありません。第一線で活躍している科学者たちも認めるようになって来ていることです。
そして、その方は私たちを大切に思っておられ、その思いが形になって歴史の中で現されたのがクリスマスの救い主誕生だったのです。しかし、クリスマスに生まれた方が、本当に本物だったのでしょうか。それを見分けるしるしが「処女が身ごもって、男の子を産む」です。750年も前から明らかにされたしるしでした。これは人間にはできない、ただこの世界を造り私たちに命を与えられた方だけに可能なことです。そのことが処女マリヤを通して現実に起こったのです。「この方こそ真の救い主だ」と信じることができる理由です。
御存じの方も多いと思いますが、大岡越前の名裁判の一つに本当の母子を見分ける裁判があります。自分が母親だと言い張る2人に、「それほどまでに言うなら、この子を半分にして分けるように」と命じます。すると、一方の女は張り裂けるような声で「そんなことはしないでください。この子をあの女にやってください」と叫んだ。そこで、大岡越前は叫んだ女に「この子は、そちのもの」と断じたというのです。ここに、大岡越前の名裁判もさることながらお腹を痛めたわが子への偽らざる母性愛が見事に表されています。
私たちに命を与えこの世に送り出した方は、同じように私たちを愛する深い御愛、真実な御愛のゆえにしるしを与え、現実に救い主を送って下さったのです。あなたに命を与えられた方は、それ程までしてご自身のご愛をあなたに知ってもらいたいのです。
ですから、聖書で明らかにされている信仰は、ただ単に心に安らぎを与えるといったものではないのです。クリスマスのお祝いを終えてつくづく思わされることですが、聖書で知らされていることは信じる、信じないのレベルではない。あなたが信じようが信じまいがそこにおられるのです。ですから、あなたもその方の御愛を知って、その方との関係を回復し、その方の御愛の中で生きることができたら何と幸いなことでしょう。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに私たちを愛された。それは、神のひとり子(イエス・キリスト)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」