星野 弘治
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」 死んだら、それで全てが終わりではなかったでしょうか。しかし、イエス様は「死んでも生き続ける人生がある」と言っておられるのです。でも、本当にそんな人生があるのでしょうか。イエス様は、何をおっしゃろうとされたのでしょうか。
イエス様がこのみことばを語られたのは、弟子のひとりが亡くなった時のことでした。しかし、ただ言葉だけのものだったでしょうか。そうでなかったのです。こう語られたイエス様は、葬られた墓に着くと、もう臭くなっていますからと躊躇する遺族に、墓石を取り除けるよう命じました。イエス様は祈られました。それから大声で、墓に葬られていた弟子ラザロに、「ラザロよ。出て来なさい。」と叫ばれました。すると、どうでしょう。死んでいたラザロが、手足を長い布で巻かれたままで墓から出て来たではありませんか! 常識では考えられない出来事です。でも、起こったことは起こったことです。確かに、「死んでも生きる」世界があるのですね。
イエス様の語られたおことばが、単なる「慰めの言葉」ではない証拠は、イエス様ご自身の最後からも確認することができます。御存じのように、イエス様はその生涯の終わりに十字架にはりつけにされました。十字架から降ろされたイエス様の亡骸は墓に葬られました。
3日目の日曜日の朝、当時は土葬でしたから亡骸に香油をぬろうと女弟子たちが墓に着いて驚きました。 墓の中にはイエス様の亡骸がないのです。他の弟子たちも知らせを聞いて駆けつけました。そして墓の中をのぞき込むと、亡骸を巻いた亜麻布が巻かれたそのままでそこにあったのです。春先などに脱皮したヘビの皮を見たことがありますか。
ちょうどあのような状態で亜麻布が残っていたのです。これは、イエス様のからだが、巻いていた亜麻布からスッと抜けるようにしてよみがえったことを物語っていたのです。
当時医者であった弟子のひとりは、イエス様のよみがえりをこのようにまとめて記録しています。「イエスは苦しみを受けた後、40日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」
どうして、イエス様はこのようによみがえることができたのでしょうか。イエス様は、実は 神ご自身、いのちの君、私たちにいのちを与える神ご自身だったのです! それなのに、ご自身から離れた私たち人間にご自身の愛を示し、罪を赦し交わりを回復するために人となって来られたのです。私たちの罪のために十字架で死なれたイエス様は3日目によみがえり、私たちの罪の完全な赦しを成し遂げられたのです。ですから、イエス様が成就されたこの罪の赦しを信じる者は、罪赦された者として交わりが回復し、死後は天の御国に迎えられるのです。確かに、「信じる者は、死んでも生きる」のです。
「イエス様。」と 主の御名を呼び求める者は、誰でも救われる。
(ローマ人への手紙 10:13)