星野 弘治
私の田舎での話ですが、一代で大きな酒屋を営むまでになった人がいます。色々な宗教に熱心な方で、お寺では檀家の総代もし、人望の篤い方でした。その彼が大病を患い死の床についた時、今まで信じてきたことが頼りにならず「ワラをつかむようだった」と言います。しかし、死んでよみがえられたイエス・キリストの話を聞いたとき、「これだ!」と喜んで信じ受け入れ、平安のうちに息を引き取ったのでした。人は、死に直面したとき、真に頼りになるものを探し求めるものなのですね。実は、自分が納得するまで動こうとしなかった私の兄も最後には同じ信仰を告白して天国へと旅立ちました。そこには宗教のワクを超えた魂の叫びを感じます。
絶望の淵に立たされたこの人が、どうして平安のうちに息を引き取ることができたのでしょうか。その大きな理由の1つは、キリストが私たちのためにして下さったことが実際に歴史の中で起こった出来事、疑いない事実だったからです。彼が今まで信じてきたことはありがたい教えではあったでしょうが、真理であるかどうかはあまり気にもかけなかったのです。しかし、死が近いことを悟った時、魂は不安に駆られたのです。
そんな時、イエス・キリストの話を聞いたのです。イエス・キリストが私たちのために死んでよみがえられたことは、歴史の中で実際に起こった出来事。この歴史上の出来事を「私のためでもあったのだ」と知り、信じたので罪のゆるしを経験し、天国への希望を確信し、平安のうちに息を引き取られたのでした。
さて、キリストの誕生と十字架、そして復活は本当だったのでしょうか。去年の12月号ですでに紹介したクリスマスの出来事、キリストの誕生で歴史が紀元前と紀元に分けられている事実を見ても、キリストの誕生は疑う余地がありません。紀元前は、「主(キリスト)の年以前」という意味、紀元は「主(キリスト)の年」という意味です。
また、キリストの十字架と復活については前号で詳しく説明させていただいた通りです。キリストはよみがえられた朝女弟子たちに、その夜には集まっていた弟子たちに、次の日曜日には疑い深いトマスに、また500人以上の集まっていた人々に現れ、そしておよそ40日間ご自身の生きておられることを数々の確かな証拠をもってお示しになったのでした。
だれでも知っているあの有名な一休和尚、死を前にして「死にとうない。」とつぶやきお弟子たちは耳を疑ったそうです。あなたは、どうでしょうか。死を見つめて今を生きる、そんな生き方ができたらと思います。そして、この世の一切の希望が失われた時でも、いや、その時にこそあなたも厳然と輝く確かな希望、復活のキリストと共に生き、共にこの世を去り、死も涙も痛みも悲しみもない永遠の天の御国に入れられる希望を抱いてご苦労の多いこの人生を過ごしていただきたい、そんなふうに思っています。
イエスは彼に言われた。わたしが道であり真理でありいのちなのです。わたしを通しでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。