星野 弘治
時計は夜の9時を回っていた。付き添いの許可をいただけるか少し案じながら7階のナースステーションへと急いだ。到着すると、驚くなかれ当直の看護師の方から「弟さんですか。よかった。お兄さんが待っておられます。」と。
どうしたのだろうかといぶかりながら急いで病室に入った。何とも言いない喜びを感じながら、体力が無くなり良く聞き取れない兄の口から出る言葉を私は全身で聞き取った。何と、兄は「弘治が信じている信仰を私も信じたい。」という意思表示をしていたのです。私はただただ天の神に感謝をささげ、それから、兄の祈りを導いた。「イエス様。私の罪のために十字架で死んで下さり、私の罪を赦して下さったことを感謝します。信じた私に永遠のいのちを与えて下さったことを感謝します。」と。死を目の前にした兄にはこう祈ることで十分でした。目を開けると、兄は私が指示もしないのにしっかりと手を組んで祈っていました。本当に、考えられないような出来事が起ったのです。
自著「意志あるところ道あり」の本の通り信念の人だった兄が、どうしてこのように心境の変化があったのだろうか。考えるうちに思い当たるふしがありました。私は月に1度くらい兄を見舞っていたのですが、この出来事の起こる3週間位前のことです。兄にファックスを送っていました。ファックスで、創造主が「天地を造られた時あなたはどこにいたのか。」と問うておられること、またへりくだって悔い改める者を豊かに赦して下さることも伝えました。これに対して兄は、「良く分かった。」と珍しく答えていました。ですから、兄は創造主の存在に気付いて来ていたのかも知れません。
また、4月でしたので教会ではキリストの復活を祝うシーズンに入っていました。私は、兄にも機会を見てはキリストの十字架と復活、その歴史的な事実を話していました。そして病室には、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」というキリストの言葉を兄が見えるように大きな字で書き貼り付けておりました。
キリストはかつて次のようにおっしゃいました。「神が遣わされた方を信じること、これが神のわざです。」と。今も、救い主として神が遣わされた方を信じる者が起されているのです。ですから、神の御業は今も間違いなく行われていることが分って来ます。
私はこの春、兄を天国に送ったこの出来事を思い返すとき、聖書のみことばの正しさを思うと共に生きて働いておられる方の存在を信じないわけにはいきません。この天地を創造され、私に命を与えられた方は、確かに今も生きて働いておられ、その永遠に変わることのない御愛をもって祈りに応え、頼り行く者を救いに導いて下さいます。感謝!!!
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。