星野 弘治
婚活、就活が盛んに叫ばれているのに、終活は必要ないという人がいます。とんでもないことです。結婚、就職は、あるいはやり直すことが出来るかもしれません。しかし、死を迎えた時、「これはまずかった。やり直そう」などと言う事は出来る話ではありません。良く考えて納得のゆく最期をむかえたいものです。それだけではありません。あなたが死後どこに行くかは、あなたが今生きているうちに決めなければならないことだからです。
しかし悲しいことには、私たちには正しい神理解がありません。私たち人類の最初の人がこの創造主、天のお父様のご愛をないがしろにし、離れてしまった時以来、この方に対する私たちの理解は失われました。私たち人間は創造主のかたちに似せて造られたので、人格を持った存在であり、霊を持った存在です。ですから、私たち人間だけが宗教的営みをしています。しかし、創造主なる神についての理解が欠如しているため、その礼拝の対象はまちまちです。人間は勝手なもので、死んだら誰でも神様仏様になると思っています。
この天地宇宙を創造された方は、ご自身に似たものとして私たちを創造され、命を与え、この世に生まれさせてくださいました。それは、私たちと親しい人格的、霊的な交わりを望んでおられたからなのです。私たち人間は創造主にとって何とも愛おしい存在なのです。聖書の中には、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と言われている通りです。
「愛」は、いかにも抽象的です。何によって愛が分かるでしょうか。人間同士だったら指輪の交換とか、何か目に見える証拠をもって愛の確かなことをあらわすことでしょう。しかし、目に見えない創造主、真の神様はどのようにしてご自身の愛をあらわされたでしょうか。それは、イエス・キリストという救い主を送ってくださり、この方においてご自身の愛を余すとことなくあらわしてくださることによってです。
私たちは、生まれながらにして創造主のおられることを信ぜず、自分の考え、信念に従って生きてきました。しかし、創造主は私たちを罰する代わりに、ご自身のかけがえのないひとり子を十字架につけて罰し、私たちの罪を赦してくださいました。ここに、ご愛の確かさ、深さは目に見えるかたちであらわされているのです。
命を捨ててまでして私たちを愛してくださった方がおられるのに、その方を無下に退け無視してしまうほど罪つくりの事はないのではないでしょうか。そればかりではありません。救い主として来られたイエス・キリストは、終わりの日に再び来られ、ご自分の身代わりの死を信じて罪赦された者を新しい天と地に迎えてくださいます。あなたは、どちら?
神は、実に、(かけがえのない)そのひとり子をお与えになったほどに、世(私)を愛された。それは御子(イエス・キリスト)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。