牧師 星野 弘治
やっぱり創造主はおられる
キリストが墓からよみがえられたことは、人間の常識を超えた出来事であり、自然のなせる業ではなかったことを前号で確認した。
そうだとすると、キリストの復活には超自然的な力が働いたに違いないと考えるのは当然のこと。その超自然的な力を働かせてキリストを墓からよみがえらせた方は、何とこの世界を造られた方だった。
聖書はさらに、「その創造主なる方があなたを愛しておられること、そしてあなたとの関係回復のために何をして下さったか」を告げている。
だから、聖書はいわゆる人間が作り出した「宗教の経典」の類ではないことが分かってくる。
その方が、わたしを遣わした
この世界を造られたその創造主をキリストは、「わが父」と呼んでおられた。その「父」が目的をもって彼をこの世に送られたのだった。
その目的とは、私たち人類の身代わりとなって罰せられ、死んで私たちの罪を赦すためだった。
驚くことに、キリストがこの世に来られる700年以上も前に、キリストが「父」と呼んでおられた創造主は、人を介して人類の罪を「彼に負わせた」と告げ、また、彼の生誕の地は「ユダヤのベツレヘム」とも告げておられる。そして、その通りのことが起こった。
キリストはユダヤのベツレヘムで生まれ、その生涯の最後に十字架にはりつけにされた。それは、正に「私たちのそむきの罪のため」だった。御父の御心を成し遂げ、死んで葬られたキリストを、御父は3日目によみがえらせた。
ですから、今や創造主を知らずに生きて来た私たちの罪はキリストにおいて赦されたのだ。
人はなぜ罪の赦しが必要か
ところで、私たちはどうして罪の赦しが必要なのだろうか。人に後ろ指指されることは何もしてない。
こう思っておられる方が多いのではないだろうか。しかし問題は、「この世界を造られた方とあなたの関係はどうですか」ということ。
その方があなたの事をどんなにか愛しておられ、そのために救い主を送って「そむきの罪」を取り除いて下さったのに、それを信じないとすれば、何と罪なことではないだろうか。
無縁の聖書だったが
私自身は仏教に救いを求めていた者。しかし、無縁だった聖書に親しみ、自分の罪深さを知らされると共に、私の罪の身代わりとなってキリストが十字架に架かり罰せられ死んで下さったことを知り、信じ、罪の赦しを自分のものとすることが出来た。
どんなに素晴らしいプレゼント、懸賞も感謝して受け取らなければ「絵に描いた餅」。ハワイ旅行もヨーロッパ旅行もない。
キリストにおいて提供された罪の赦しも同じ。ただ信じ受け入れるなら、あなたも罪赦された者。天国行きの切符はあなたのものだ。
聖書の言葉
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。