星野 弘治
今回は、喜びと平安の中で日々過ごしている私たちの教会の吉野さんの体験談を紹介させて頂きます。𠮷野さんが、神の愛をどのように体験されたでしょうか。どうぞご覧ください。
少年時代の私
あれからもう五十数年がたったが、今でもあの時のことは、鮮明に記憶に残っている。自分は当時まだ小学2年か3年だった。生まれたばかりの姉の子を幸せそうに抱いている父の傍らで、「人間は死んだらどうなるの?」と尋ねた。そのときの答えは「人間は一度死んだらそれでお仕舞いで、もう生きて戻っては来れないんだよ」と聞かされ、子供ながら言いようのない、恐怖心、と不安に襲われた。が、時が経つとともに、死と言うものが、遠いかなたにあって自分にはまだ関係のないもののように思えるようになっていった。
それから数年が過ぎ、高校一年になったとき、従兄弟に教会につれて行ってもらった。そこで初めて、「永遠のいのち」と言うことを聞き、幼き日のことを思い出し、神さまは自分の心のうちの思いをお見通しであることを知った。驚き、感動し、筆舌に尽くしがたい思いに感嘆した。それがきっかけとなって教会に通うようになった。
教会に通うようになったある日
教会に通うようになって、以前からのもやもやした思いが粛々とこみあげてきた。それは、小学4年のとき母親の財布から百円を盗んだのが始まりで、もうこれでやめようと思いつつもやめられずにいたことである。
そんな思いを引きずったまま高校生になった。そんな時、牧師の説教から「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。私は自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」(ローマ7:15)と言う聖書のことばを聴いた時、ほんとうにその通りだ、今の自分をそっくり言い当てている。そして、それが「罪」であることを教えられた。
心にある平安と喜びの日々
そんな自分にイエス様は「あなたの罪はゆるされた」と言ってくださった。おまえのしてきたことはみんなわたしが引き受けてやる。「おまえの罪はすべて忘れる。」と言って下さったのです。聖書からイエスさまのその言葉を聞いたとき、言いようもない平安がやってきました。平安が訪れました。心が軽くなりました。深い深い喜びで満たされました。
罪が赦されることは何事にも代えがたい喜びです。いまは、この喜びで満たされた日々を過ごせることに感謝しています。
聖書のことば
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。
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